内科医shimaのブログ

都内在住の循環器内科医が、日常診療や日々の気づき、資産形成について考えたりします。

自己紹介

【スポンサーリンク】

また、このブログは備忘録(びぼうろく)でもあります。

現在(2017年8月時点)のプロフィールを紹介します。

恥ずかしながら、自分の黒歴史も公開してみました。

自己紹介

プロフィール

30代 勤務医(循環器内科)

出身地 静岡県

医者になったきっかけ

小学生時代

両親は医療とは全く関係ない仕事についていました。

小学生の時に野口英世のマンガを読んで、そのひた向きさに「かっこいいな」という感想を持ちましたが、これだけで医師になろうとは思いませんでした。

女の子と仲良くなりたいと考えてはいましたが、ちょっかいを出すことでしかアピールできないシャイボーイでした。

中学生時代

日直日誌にクラス担任の先生に向けて、「先生は皆のことがこれだけわかっていないんだ」ということをコメント欄に書きました。自分としては「先生にクラスの問題を教えてあげて、正義感の強い自分って偉い」と思っていましたが、先生からは「そんなことを言われるなんて、非常に心外です」という返事が返ってきました。

ちなみに心外の意味が分からなかったので辞書を引いて調べたら、先生が怒っていることがわかりましたが、なんで怒っているのかが分かりませんでした。

「人の揚げ足を取るのがうまいね」と言われたこともあります。その時は「なんか、褒められたなぁ」なんて思っていました。

そんな、皮肉の通じない、純粋でかわいい、頭の足りない中学男子でした。

そして、中学生の卒業の時、自分的に重大な事件が起こります。

文集の時に「~な人」というランク付けがありました。

面白い人とか、かっこいいとか、変な人とか。

そこで、変な人ランキングには3位に入賞しましたが、面白い人とか、そういうプラスの評価では全然ランクインしませんでした。

今ならば人になんて思われてもそんなに気になりませんが、中学生の時は学校社会は世界のほとんどといっても過言ではない状態。

なので、自分としては色々面白いだろうと思ってとっていた行動(教室にあった段ボールを被る、授業中カーテンに包まって戯れる、眼鏡を逆さにかける)などは、ただただ「変な人」と思われていたことに、この上ないショックを受けました。

普通に考えたら、確かに変な子供だなと思いますが、当時は「自分は面白いことをしている」という信念に基づいて行動していたため、自分のやっていたこと、やろうとしていることに自信が持てなくなり、そこから奇行は影を潜めることとなります。

同時に、「今後自分はどうやって生きていけばいいんだ?」ということに悩むようになりました。

高校時代

そんな気分を抱えたまま、高校生になってしまいました。

もう、誰も信じられなくなった私は、本に救いを求めるようになります。

その時、手にしたのが、中島らもの明るい悩み相談室でした。

世の中のどうでもいい(?)悩みに、中島らもが「まじめにふざけながら」答えている回答に、すっかりハマってしまいました。

通勤途中や、休み時間に中島らもを読みふけり、この頃からさらにお笑いを求めていくことになります。

当時は深夜にしか面白いお笑い番組がなく、さらにまだネットが発達していなかったので、夜更かししてリアルタイムで見るため、日中は眠いことが多かったです。

とくに好きだったのが、「三宅裕司のワークパラダイス」。

生瀬勝久が、「ありそうだけど実際にはない職業の人」になりきり、三宅裕司がインタビューするというもの。達磨相談士やすたれさせ屋など、個性的な、アクの強い職業になりきり、もっともらしく職業について語っていきます。しかし、アドリブで展開していくため、突っ込まれた質問をされるとドンドン追い詰められていく生瀬勝久。今まで、こんな設定のお笑いを見たことがないため、すごく新鮮で面白く、次週を待ち遠しく感じていました。

そんな深夜テレビを見ながら一人でクスクス笑う高校生でした。

おそらく同級生では、そんな番組を見てる人は一人もいなかったと思います。

お笑い番組は関西系が多く、(クラスでは必要以外に話さなかったため)必然的によく聞く言葉は、関西弁であるため、高校生の時は、自分の頭の中でしゃべるときはいつも関西弁でした。もちろん口に出すときは、標準語です。

そうしてお笑いの面白さに目覚めた私は、「そうだ、芸人になろう」と思い始めます。

しかし、ふと現実に帰ると人前でしゃべることも困難になってしまった私がいました。「あれ?声ってどうやって出すんだっけ・・・?」

この時点で、すぐにムリだと思い当たりました。

同時期に、心理学、精神医学にも救いを求めていました。お笑いを見ながら、心理学や精神医学の本を読むなんてちょっと変わってますね。

このときに考えていたのは「どうやって、自分の闇を克服していくか。そもそも生きる意味は何なのか。どうして生きているのか。」ということが中心でした。

突っ走った私は、あろうことか授業の休み時間に国語の先生に向かって「人はいずれ死んでしまうのに、どうして生きているのでしょうか。生きている意味とはいったい何なのでしょうか」と聞きに行ってしまうほど、その時は真剣に考えていました。

この時から将来について、「そうだ、心理学を学べるところに行こう。自分の生きる意味が分かるかもしれない。」と思うようになります。

自分で心理学を勉強するようになり、河合隼雄を知り、そこから心理学、精神医学に興味を持ち、それに関連した仕事をしたいと思うようになります。

そうして、精神科医になろうと決意し、医学部に進むことになりました。心理学ではなく、精神医学を選択した理由は「国家資格だから」でした。

大学~医者に

大学生になった時も、精神科医になる気でいました。

臨床実習でも精神科が楽しかったのですが、研修医になったとき、「もっと自分に厳しくしよう」と何故か思い始めます。

循環器内科は、急変もあったり、緊急カテーテルなどもあったり、大変でしたが、同時に自分の全く知らない世界が知れて、今までとは違う達成感や面白さを感じていました。特に、「年を取ってからは循環器は出来ない、今しかない」と思ったので、若いうちに苦労しようと思って入局してしまいました。

さらに、研修医で各科をローテーションしているときに最初から「精神科医になります」と宣言していたため、あまり積極的に循環器に勧誘もされず、それが逆に自分としては居心地がよかったです。期待されると出来なくなるタイプなので。 

これから医者になる君に

自分の人生について、ざっと説明しました。

ほんとは大学時代、研修医時代、なぜ精神科をあきらめたのか、結局生きる意味は見いだせたのか、という話もあるのですが、長くなってしまうのでこれで終了にしようと思います。もし機会があれば、書いてみたいと思います。

私の医者の志し方は「自分が悩んでいるから、それの答えを知りたい」という気持ちで入ったので、なんだが少し不純な気もして、あまり人に話せませんでした。「人を助けたい、役に立ちたい」という思いではないので、後ろめたさもありました。

しかし、こんな人生でも誰かの、何かの参考になればいいのかなと思い、書いてみました。

もし、気分を害する人がいたら、すみません。

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。